アルマーニとヴェルサーチ~永遠のライバル

ョルジオ・アルマーニのライバルといえばジャンニ・ヴェルサーチであることはいうまでもない。ジョルジオ・アルマーニ、ジャンニ・ヴェルサーチ、ジャンフランコ・フェレとともに「ミラノの3G」といわれるほど80年代、90年代のミラノを牽引した。

 

 アルマーニとヴェルサーチはお互いどのように思い感じていたのだろうか?興味深いものがある。

 

 ここでは、ジャンニヴェルサーチとはどのような人物だったのであろうか?紹介したいと思う。

 

 ジャンニ・ヴェルサーチ年表 

 1946年12月2日・・・南イタリア・レッジョ・ディ・カラブリアで生まれる。母親がブティックを経営していて影響でファッション業界に興味をもっていた。母親のブティックで働いた後にミラノへいきキャリアを積んだ。

 

 1973年・・・「ジェニー」にスカウトされてデザイナーとなる。

 

 1978年・・・独立して「ジャンニ・ヴェルサーチS・p・A」を設立し、コレクションを発表してミラノに第1号店をオープンする。

 

 1981年・・・香水を発表する。

 

 1982年・・・「ゴールデン・アイ賞」を受賞(イタリアの婦人服デザイナーの最高の賞)

 

 1983年・・・ニューヨークで「カティ・サーク賞」を受賞。

 

 プレタポルテ「ジャンニ・ヴェルサーチ」ヤングライン「ヴェルサス」ジーンズライン「ヴェルサーチ・ジーンズ・クチュール」オートクチュール「アトリエ・ヴェルサーチ」スポーツライン「ヴェルサーチ・スポーツ」ビジネスライン「ヴェルサーチ・クラシック」や「イスタンテ」子供服「ヴェルサーチ・ヤング」コスメ「ヴェルサーチ・ビューティー」を次々と発表する。

 

 1995年・・・映画「ジャッジ・ドレッド」の衣装を担当する。

 

 1997年7月15日・・・アメリカのマイアミ・ビーチにある別荘入り口にてゲイで高級男娼のアンドリュー・クナナンに射殺される。(クナナンは1週間後に警察に包囲される中で自殺する)クナナンはヴェルサーチの恋人とも噂もあるが今となっては真相は闇の中である。ヴェルサーチは以前、自分が同姓愛者であることをカミングアウトしている。

 

 ヴェルサーチのデザインと色づかいはド派手で官能的すらあるがアルマーニとは対極であった。そして、スーパーモデル・ブームの火付け役でもある。

 

 1990年にヴェルサーチの顧客であったエリック・クラプトンがコンサートツアーでアルマーニを着るとヴェルサーチは「ミュージシャンなのに会計士の格好みたいだ」と批評したと伝えられる。

 

1992年にアルマーニは雑誌のインタビューで明らかにヴェルサーチに対してと分かる苦言を呈している。2人の間で激しく批判合戦が繰り広げられた。

 

 そして2人の批判合戦は1992年に最高潮に達した。9月8日火曜日19時30分に同時にショーを開催すると発表されイタリア内外のメディアが驚愕することとなる。どちらかのファッションショーを選ばなければならない事態である。どちらも譲る気配がないまま膠着状態が続いたが最終的にロザンナ・アルマーニとサント・ヴェルサーチのとりなしで和解する事となった。世間では売名行為と揶揄するむきもあったほどである。ライバル意識とスタイルの違いからアルマーニ派とヴェルサーチ派という言葉も生まれた。しかし、アルマーニ自身は正反対のスタイルであったがヴェルサーチの才能は認めていた。

 

 1997年7月マイアミにてヴェルサーチが射殺され世界中に衝撃が走った。まさに悲劇的な最期であった。アルマーニも大きな衝撃を受けた。アルマーニとヴェルサーチは共に自分には無い部分を持っている存在であったからである。ミラノの大聖堂でおこなわれたミサに多くのセレブが参列するなか、アルマーニも参列した。表情はこわばっており、教会の前に集まっている群集を避けるように急ぎ足で入り口のある階段を上がっていったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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