ジョルジオ・アルマーニ モード界の帝王と呼ばれて

1996年、ジョルジオ・アルマーニの兄であるセルジオ・アルマーニがミラノの病院で治療の甲斐もなく死去する。そして、この年にアルマーニ社はボルゴヌーヴォ通り11番地内にプレスオフィスとデザインオフィスを移転した。18番地には管理部門を置いて21番地はアルマーニの自宅が残された。

 

 1997年にはアルマーニの姪であるロベルタが結婚した。ロベルタも1994年ごろからアルマーニ社で働き始め海外のプレス担当であった。その後、「エンポリオ・アルマーニ」プロモーションを担当するようになり、アルマーニ社の中でなくてはならない存在になる。また、つねにジョルジオ・アルマーニのそばに付き添っていた。

 

 この年の7月には永年のライバルであるジャンニ・ヴェルサーチが射殺され世界中が騒然となる。お互いに批判合戦を演じた2人であるがお互いの才能は認め合っていた。ミラノの大聖堂でおこなわれたミサにアルマーニも出席していた。11月には約15年ぶりに来日を果たし大歓迎を受けファッションショーはテレビ中継もされた。

 

 1999年には中国に進出し北京に1号店がオープンした。「アルマーニ・エクスチェンジA|X」の旗艦店がニューヨークにオープンしパリに「エンポリオ・アルマーニ」の大型店オープンさせた。1998年3月にはパリで「エンポリオ」ファッションショーを開催を計画するが、ショー当日にパリ警視庁は安全上の理由により中止命令を出し中止となった。その仕切りなおしはニューヨークでおこなわれ当時のニューヨーク市長であるルドルフ・ジュリアーニ氏とも面会した。ファッションショーには800人が招待された。

 

 1998年6月にはタイム誌は「今世紀の100人」にジョルジオ・アルマーニを選んだ。このころになるとアルマーニ社は従業員も2,500人となりイタリア有数の企業となっていた。ファッション業界もまた「グッチ」の経営権をめぐりLVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)グループとPPR(ピノー・プランタン・ルドゥート)グループが争奪戦を繰り広げていた。そして、1999年2月アルマーニのメンズコレクションのファッションショーにLVMHグループのベルナール・アルノー会長が姿をあらわし最前列でショーを見守った。メディアは騒然となるが後日、LVMHグループは噂を完全否定する。アルマーニ自身もグループ入りを否定している。

 

 1999年9月に2000年春夏コレクションをミラノのポルタ・ジェノアにある旧ネスレ工場で開催した。その時のショーは新鮮味にあふれていたという。ショーの終了後には改築工事をすすめられた。建築家の安藤忠雄による設計で、これがアルマーニ・テアトロとなり2001年秋にオープンする。12,000平方メートルの大劇場である。いっさいの装飾をもたない壮大な建物である。

 

 2000年9月には家具・インテリアのライン「アルマーニ・カーザ」を発表する。シンプルでどことなく控えめではあるが存在感を放ちアルマーニがデザインしたのがひとめで分かる。アルマーニスタイルが行き着くところまできた感じさえするのである。そこに住む人が心に抱くイメージを大切にし実用的な家具のデザインである。

 

 2000年にはアルマーニ社のゼネラル・デレクターを長く勤めてきたジュペッゼ・ブルゾーネが退社した。6月には最愛の母親マリア・ライモンディが亡くなり新たな苦悩がアルマーニを襲った。同じくこの年にはミラノの中心部のマルゾー通りにメガストア「アルマーニ・ヴィア マンゾーニ31」がオープンした。3フロアに「エンポリア・アルマーニ」「アルマーニ・ジーンズ」「アルマーニ・フレグランス」などがあり、誕生したばかりの「アルマーニ・カーザ」も入っている。同じく、この年からニューヨーク・グッゲンハイム美術館で「ジョルジオ・アルマーニ展」が開催された。過去30年にわたるデザイナーとしての活動がみれる大回顧展であった。その後数年をかけ世界各国を巡回する。スペインのグッゲンハイム・ビルバオ美術館、ベルリンの新国立美術館、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、イタリアではローマ国立博物館そして東京、ロサンゼルスと回り2006年に北京2008年にミラノのアルマーニ・テアトロで最終を迎えた。

 

 2001年9月11日、アルマーニはニューヨークの「アルマーニ・カーザ」の新しいブテックのオープン準備中に同時多発テロに遭遇する。その後、政治に影響を及ぼし経済に打撃を受ける。アメリカでの売り上げが減少したが他社のブランドに比べると影響は少なく済んだ。それは、服が主力商品でありアクセサリーの売り上げの割合が小さかった事がさいわいした。

 

 2002年にはアジア諸国進出に力を入れる。北京に「アルマーニ・カーザ」の店舗をオープンさせ香港にはメガストア「アルマーニ・チャーターハウス」がオープンしアルマーニブランドがすべて揃う店舗となっている。上海には「ジョルジオ・アルマーニ」と「アルマーニ・カーザ」のブテックが出来る。特にアルマーニは中国への進出に積極的であった。2004年には上海と香港でファッションショーを開催し2006年には「ジョルジオ・アルマーニ展」を上海で開催している。

 

 2003年にサッカーのイギリス代表チームのジャージをデザインし、2006年2月のトリノ・オリンピックでも聖火ランナーを務めデザイナーとしても協力をした。

 

 2005年1月にはパリでオートクチュールラインの「アルマーニ・プリヴェ」を発表し世界を驚かせる。また、2006年にはメンズのオーダーメイドライン「ジョルジオ・アルマーニ ハンド・メイド・トゥ・メジャー」を開始した。この年の1月にはスイスで開かれた世界経済フォーラムに出席し「プロダクトRED」に協力することも発表する。

 

 2007年秋にはジョルジオ・アルマーニ・ジャパンのオフィス機能も揃っている「アルマーニ・銀座タワー」がオープンし各アルマーニブランドにレストランやスパなども完備されている。

 

 2010年ドバイのブルジュ・ハリファに世界初の「アルマーニ・ホテル・ドバイ」がオープンし、2011年2月には2号店の「アルマーニ・ホテル・ミラノ」がミラノの中心部にオープンした。言うまでもなく「アルマーニ・カーザ」のコレクションが使用された内装になっている。

 

 年を重ね世界でも有数の富豪となった現在でもアルマーニは厳しく自己コントロールし、次々と新たなプロジェクトをすすめている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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