ジョルジオ・アルマーニ  悲しみを乗り越えて

1985年8月長年支えあい敬愛する友、セルジオ・ガレオッティを亡くしてから喪失感に襲われながらもアルマーニは人生最大の試練と戦った。そしてひとつの決断をした。それはアルマーニ自身がガレオッティのこなしていた業務を引継いでクリエイティブの仕事に戦略、財務など営業面もこなしていく。

 

 しかし、アルマーニは次第に自身以外には信頼できなくなっていき、ますます殻に閉じこもり厳格になっていった。そのような状況にもかかわらず発表するコレクションは大盛況でありイタリア共和国功労勲章グランデ・ウッフィチャーレをはじめさまざまな賞を受賞した。そしてブランド自体もますます拡大しメディアより「アルマーニ帝国」と呼ばれるようになった。

 

 1987年映画「アンタッチャブル」の主人公をはじめてとした主要登場人物の衣装を担当する。ショーン・コネリー、ケビン・コスナーなど豪華な顔ぶれであり、アカデミー衣装デザイン賞にノミネートされた。それ以降ハリウッドセレブに衣装を提供して公の場で身に着けてもらいハリウッドセレブ達はこぞってアルマーニを身に着けるようになる。それは現在でも多くのスターが公の場でアルマーニを着ている。また、1988年には世界のベストデザイナーとしてクリストバル・バレンシアガ賞もスペインの国王から授与された。アルマーニにとっては1980年代は様々な出来事があり苦しい時期もあったがブランドを拡大し世界的トップデザイナーとしての地位を固めた10年であった。

 

 そして、1989年には世界的事件がおこる。ベルリンの壁が崩壊し世界を二分してきた冷戦構造に終止符がうたれたのである。1990年にはイラクのサダム・フセインがクウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発する。イタリアでも問題がおこっていた。長期にわたり政界を牛耳っていた大政党が危機を迎え新しい政党が生まれた。1992年にはマフィアが絡む暗殺事件も頻発する。また、政治家や財界の大物による汚職事件もありアルマーニにも疑惑がかけられた。それ以外にはイタリアのテキスタイル業界の生産体制自体も危機を迎えていた。

 

 1990年11月アメリカで大々的にアルマーニに関するイベントが開かれる。ニューヨーク州立ファッション工科大学は200枚の写真を使用した写真展を開く。それに、ニューヨーク近代美術館で開かれたイブニングパーティーもすばらしいものとなる。また、アルマーニのドキュメンタリー映画「メイド・イン・イタリー」がアメリカで上映され大好評であった。こうしてアルマーニは自分の信念を曲げずにエレガントなスタイルを守りつづけた。

 

 1992年6月にはイタリアを代表する存在としてフィレンツェのピッティ宮殿で開催されたプレタポルデ誕生40周年を記念する展覧会にアルマーニは招かれた。そこで1982年から1992年にかけてデザインされたイブニングドレスを展示した。

 

 もはやアルマーニの成功は絶頂を迎えていたが新しい局面も迎えていた。1991年ニューヨークで「アルマーニエクスチェンジ A│X」1号店がオープンしたのである。その後に40店舗ほどがオープンした。ジーンズやTシャツなどが比較的に低価格に設定されたブランドである。美しくこなれたカジュアルを発展させた新路線であった。

 

 この頃のモード界には破壊的な新世代のデザイナーが台頭してきたがアルマーニが相変わらず多くの賞を受賞している。アメルカでジーンズの広告キャンペーンがゴールデン・エフィ賞をスペインでは年間ベストデザイナーとしてアグハ・デ・オロ賞を受賞した。また、ワシントンで著名なイタリア人及びイタリア系アメリカ人に贈られるライフタイム・アチーブメント賞をクリントン大統領から直接に授与された。

 

 映画界でも多くの俳優がアルマーニの衣装を着て映画に出演した。1995年3月ファイナンシャル・タイム紙がファッション関係者を対象にした調査で「ファッションデザイナーの王」に選ばれた。もはや世界一と認められたのである。アルマーニはつらい心情を押し隠して平然とした態度で威厳を漂わせて仕事に精力的にこなしていったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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