ジョルジオ・アルマーニ 人生最大の苦悩

1982年に「タイム」誌の表紙を飾って以来ショルジオ・アルマーニは世界最高のデザイナーと評され「モード界の帝王」とまで呼ばれるようになった。

 

 1983年にはGFT社との合弁で「ジョルジオ・アルマーニ・メンズウエェア・コーポレーションUSA」が設立されてアメリカ全土のアルマーニブランドが一括管理されるようになった。また、アルマーニは生まれ故郷のピアチェンツァ市から金メダルを授けられパリではフィル・ドール賞、アメリカではファッションデザイナー協会から最優秀外国人デザイナー賞を受賞した。まさに「モード界の帝王」と呼ばれるにふさわしいものであり世界でアルマーニの名を知らないくらいの有名人となった。

 

 世界的有名人となったアルマーニはプライベートな部分でも注目され続けるようになる。しかし、アルマーニは一切の隙も見せない完璧主義を通した。プライベートな交友関係も神秘のベールに包まれているほどである。これはガレオッティを始めとしてアルマーニの周辺のスタッフが盾となってアルマーニを守っているのである。アルマーニ自信もプライベートを犠牲にする位仕事に打ち込んだのである。

 

 アルマーニとガレオッティの二人の盟友はまったくの正反対の性格である。静のアルマーニと動のガレオッティ。アルマーニは完璧主義でプライベートまで犠牲にするぐらい仕事に打ち込むがガレオッティは周りの「スタッフにもプライベートがあるから」とよく注意していたようである。周囲を明るくするガレオッティのユーモアで陽気な振る舞いはアルマーニ社には欠かせない存在であった。

 

 1975年の創業以来アルマーニとガレオッティは二人三脚で走り続けてみるみる急成長を遂げたアルマーニ社。そのアルマーニに人生最大の試練と苦悩が襲い掛かる。盟友で共同経営者のガレオッティが不治の病に冒されたのである。闘病生活は1年にも及んだ。その間アルマーニは精神的に追い込まれていった。しかし、そんな素振りはひとつも見せず気丈に振舞い仕事にも打ち込んだ。そんなアルマーニを周囲のスタッフは胸を締め付けられるように見ていた。1985年8月、固い絆と友情で結ばれていたガレオッティは息をひきとる。

 

 アルマーニ社はガレオッティが営業面や戦略や交渉業務などを一手に引き受けていたおかげアルマーニはクリエイティブな仕事に没頭出来た部分が大きい。そのガレオッティがいなくなったことで周囲もかなり動揺し将来の不安を感じる社員が出始めた。そして何より共同経営していたガレオッティの遺族から事業の完全撤退する連絡を受けて会社経営はゼロからの振り出しに戻ることとなる。ガレオッテイを失った悲しみに打ちひしがれているのにもかかわらずアルマーニはガレオッティがこなしてきた業務を全て引き継ぐ事を宣言する。

 

 アルマーニは更に厳格になり、ますます仕事に打ち込むようになる。そして社内での衝突などもあり重要な役職に就いていた数名の社員がアルマーニ社を辞めていった。また、アルマーニはグループ企業の再編に着手する。そしてGFT社やSIM社といったブランドを製造する企業とも更に強固にしていった。1989年には「エンポリオ・アルマーニ」のジーンズを製造しているSIM社など提携企業に資本参加した。

 

 社内にいたっては妹のロザンナは広告キャンペーンなど広報の責任者となりコミュニケーション部門も担当し「エンポリオ・アルマーニ」のテレビ・スポットの広告を手がけた。姪のシルヴァーナは「エンポリオ」のレディースや「アルマーニ・ジュニア」のデザインを担当した。

 

 1986年に開催されたサッカーの「ワールドカップ・メキシコ大会」のイタリア代表のジャージのデザインを手がける。1987年には伊藤忠商事グループと契約を締結し日本にもアルマーニブランドが上陸し東京にショップがオープンした。特に「エンポリオ・アルマーニ」はショップ数が大幅に増えて世界の大都市にショップがあるまでに成長した。

 

 こうして、アルマーニは盟友の死を乗り越えてデザイナーと経営者の二束のわらじを履き精力的に活動していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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