ジョルジオ・アルマーニ 独立~伝説の始まり~
セルジオ・ガレオッティ トスカーナ州の出身でアルマーニよりも10歳年下である。ミラノで建築デザイナーであったが転職しテキスタイル・メーカーで勤務していた。アルマーニとは違い社交的な性格である。
そのガレオッティはセルッティを辞めるように様に1年をかけてアルマーニを説得する。既にセルッティの職場での限界を感じ始めていたアルマーニは説得に応じ退職を決意する。
アルマーニはガレオッティの説得に応じ独立をし1975年に共同で「GIORGIO ARMANI S.p.A」社をミラノで設立した。部屋がふたつだけの小さなオフィスでガレオッティがマネジメントを担当してアルマーニはデザイナーに専念する。創業時はアルマーニとガレオッティとアルバイトの女性イレーネ・パントーネの3人でのスタートであった。そしてアルマーニとガレオッティの信頼関係間ますます強固となっていく。
独立後もアルマーニは「ヒットマン」「アレグリ」「バグッタ」「ヒルトン」「モンテドーロ」「シコンズ」「ジホ」「ウンガロ」「エルメネジルド・ゼニア」「ロエベ」などのデザインも手がけた。
1975年7月に76年春夏メンズコレクションを発表する。初めてのコレクションは大成功する。メンズコレクションの後に76年春夏レディースコレクションも発表し大喝采を浴びる。1967年3月に発表された秋冬コレクションでレディーススーツを披露し大評判となった。こうしてメンズ、レディースとも堅苦しいジャケットの構造を解体し、着心地のよいエレガントなジャケットで新たなファッションを作り出していく。具体的には肩が落ちてボタンの位置も低くなり、カッティングやプロポーション、ボリュームが変化したのである。こうしてアルマーニはモードの世界で重要な位置を占めていった。
もうひとつ重要だったのはメンズファッションの専門誌「ウオモ・ヴォーク」の編集長フラヴィオ・ルッキーニとの出会いである。その「ウオモ・ヴォーク」でコレクションの特集記事を組み、ますますアルマーニの名が世界に轟くようになると同時に売上額もどんどん増えていった。アルマーニは当時からファッション誌が大きな影響力を持っているのを理解していたのである。
やがてアメリカからのバイヤーが訪れるようになる。ニューヨークの高級百貨店「バーニーズ・ニューヨーク」である。アメリカ市場に進出したアルマーニのコレクションはたちまち大ヒットとなり急成長を遂げる。その数シーズン後には同じくアメリカの高級百貨店「サックス・フィフス・アヴェニュー」も顧客となり店頭にコレクションが並ぶと同時に大ヒットとなり完売状態が続いた。
アルマーニ社のオフィスも手狭になった事から二度の移転をする。ミラノの中心のドゥリーニ通りにある館<パラッツオ>でその内装は神話を題材としたフレスコ画で飾られた豪華なものであり、さらにアルマーニ社の威信を高めた。
急成長をとげたアルマーニ社は業務拡大を目的にトリノのアパレル企業のGFT社と業務提携を実施しGFT社の工場で製造されるようになる。また同時に技術革新を推し進めGFT社の従業員の意識改革にも結びついていく。
このようにアルマーニはイタリアのファッション業界を牽引し新しい時代へと導いていくのである。
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