ジョルジオ・アルマーニ 医学生からファッションの世界へ

立派な青年へと成長したアルマーニはやがて医学の道を志しミラノ大学医学部に入学する。
しかし、順風満帆に見えたが医学の道を挫折しミラノ大学医学部を退学する決意をする。
そして、やりたい事が見つかるまでの間兵役に就くことにした。

 

 アルマーニは最初シエナの工作部隊に入隊したが大学の医学部で学んだ事を買われヴェローナ連隊の医療班に転属となった。やがて、アルマーニは休暇を利用して職探しを始める。そんな折、ミラノの大手百貨店リナシェンテに勤務している幼馴染から求人している事を知り面接に挑む。そして、求人していた広報部の部長に気に入られ採用にこぎつける。

 

 リナシェンテに就職したアルマーニは同僚の建築家のアシスタントとしてその後の華麗なキャリアのスタートを切ることとなる。その頃のリナシェンテは当時としては普通の百貨店から最新の流行を発信する百貨店に生まれ変わる過渡期であった。そんな時代に遭遇したアルマーニにとってはチャンスであり色々な刺激を吸収していくこととなる。

 

 仕事の内容としては写真家のアシスタント、ショーウィンドウのデコレーションや紳士服の買い付けなど経験しひとつひとつステップアップしていった。その後、はスタイル&ファッション部門で紳士服を専門に任されていく。
中でも成功したのがツィード地のジャケットとコーディネートする黄色のベストの輸入だった。この成功がアルマーニに自信を持たせた。

 

 アルマーニの交友関係で当時、親しくしていた女性からセルッティを紹介された。セルッティは新たに売り出そうとしていた紳士服のブランド「ヒットマン」のデザインを担当するアシスタントを探していたのである。「ヒットマン」はテーラー仕立ての紳士服のプレタポルテをコンセプトとしていた。当時の紳士服といえばテーラーにオーダーメードの服を仕立ててもらうか平凡な既製服を購入するかだった。

 

 さっそくセルッティはアルマーニを面接し採用が決まる。その後工場研修を経て「ヒットマン」の紳士服デザインを始める。この「ヒットマン」でアルマーニはソフトで着心地のよい服を提案し成功のステップを駆け上がることとなる。

 

 1970年代にはキャッチコピー「ヒットマン・バイ・アルマーニ」としてさらなる注目を集める事に成功し、他のブランドのデザインを手がけた。「モンテドーロ」や「シコンズ」といったブランドである。ここでも彼のデザインしたコレクションは大成功する。

 

 1971年にはフィレンツェのメーカーのテンダレス社のアドバイザーもするようになり初めてレディースファッションを手がける。もはや飛ぶ鳥を落とす勢いのアルマーニがデザインするコレクションはショーでも大盛況を収める。

 

 このセルッティのもとでの8年間はアルマーニにとってはかけがえの無い経験が出来た期間である。

 

 1966年にアルマーニはこの先に人生を左右する出会いをすることとなる。トスカーナ州出身のセルジオ・ガレオッティである。この二人の出会いは更なる伝説の幕開けとなるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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